starRo ∞ 三上 健太郎
第8回はだしのこころ 感覚の対話「はだしのスクラッチ」で三上 健太郎さんと感覚の対話をした出展作家のstarRoさんにお話を伺いました。先ずは三上さんが見ている世界を少し覗いてみます。
圓井
はい、というわけで、starRoさんには三上さんとは会わず音声だけを送り、感じた事を作品を通して対話をしていただいたんですが、はじめて三上さんのお話を聴いてどんな事を思いましたか?
starRo
僕は13年くらいアメリカにいて5年前に帰ってきたんですけど、5年前から3年前位までの2年位の間に、自分が死んだという感じがしていて、感覚としてはその前の自分って前世みたいな感じなんですよね。自分が感じているというものが、実はこの話を聞いていて、すごい近いかも… 本当は近くはないかもしれないんだけども、そういう風に感じてしまったんですよ。
それがどういうことかというと、自分が死ぬ前というか、エゴデスにいかれる前の自分というのは、まず最初に自己実現というフェーズになると思うんですよね。
自分はこういう人間になりたい、こういう風に世の中の役に立ちたいとかね。
そういう自己実現のフェーズがあって、こういう風になりたいって結局、相手方の世界というものがあり成り立つんですけど、その世界というものも結局自分がこうなりたいっていうちょっと都合のいい方向に世界をみてるし、逆もしかり世界をこういう風に見えてるから自分がこうなりたいっていう、そういう中で方向性がすごく定まっていて、そこに絶大な信頼感、信じる力っていうのが大きくて、その力を前にどんどん進んで自己実現みたいなものをしていったりすると思うんですよね。
僕の場合は、ちょうど5年くらい前が自己実現のフェーズだったと思っていて、13年位サラリーマンやってた事もあるし、音楽はずっと小さいころから趣味でやってたんですけど、世界のいろんなところとか、いろんな業界、いろんな社会、いろんな回想っていうか、そういうのを経験していくうちに5年くらい前にグラミー賞にノミネートされて宝くじに当たったみたいなことがあったんですけど、ずっと山登り続けてまだまだ理想郷があると思って登ってたら、その授賞式の時から急に崖になった感じなんですよ、「ここから先は行けない」その瞬間だったっていうのをすごくはっきり覚えていて、僕は音楽でその時は食べていましたので、そこで頑張ってもっともっと食べていけるようになりたい感じでやっていたのが、全部があれ?っていう、、、これはもう違うって明らかに分かってしまった。
それが最初はそういう音楽活動だけの話だったんだけど、結局じゃあアメリカとか世界を目指している自分っていうのもなんかもう、、、もっと言うなら音楽も結局、西洋音楽を借りてやってるんで、それから転々とする生き方とかも含めて全部がある意味その時否定されて崩れてしまった。
登った山を降りざるを得なかった…
その後どうすればいいんだと思って、その2、3年くらい、日本帰ってきてすぐコロナになったりとかしてその間、自分はかなりの重度な鬱だったりして、いわゆる周りから見たら「落ちぶれた奴」みたいな感じになっていたんですけど、結局その3年くらいがあって、もう登った山を降りたんですね、もう降りざるを得なかったから降りたんですよ、それで自分のスタート地点に戻ってきて、それが日本なんですよ。僕のルーツに戻ってきて、やっと自分が目指してたのって本当は反対方向っていうことに気づいたんです。
それでその戻った麓の日本はどういうところかっていうと、「わびさび」の概念があると思うんです。
わびさびって実は、島国だから腑に落ちた概念なのかなって思うんですよね、どういうことかっていうと島国なんで地政学的に言うと島にトラップされてるから、大陸の人だと常に自分達と価値観が違う人がウジャウジャいて、だから戦争とかあったりとか領土の境界線を人間が勝手に決めてこれが広がったり地震だとかをずっと繰り返さないといけない、そういう中で、わびさびって生まれるのかな??って思うんですよね。
我々って物理的にトラップされて、ここで幸せになるしかないんですよ、だからこそ、ここで起きる良いことも悪いことも、わびさびで言うと例えば華やかに花咲いていく美しさと、それから衰えて朽ちていく美しさ、その両面があって二重構造の美というか、それがわびさびってことなのかなと思うんですけど、その両方がちゃんと同列に受け取れてるからそういう概念が生まれて、日本の精神性ってそこに集約されてると思うし、本当は世界って宇宙の真理かなと思うんですね、そこにやっと気づいた時にさっきのこの話に戻るんですけど、世界はこうだって思っちゃってる時っていうのがフラットに見えてないんです、こういう風に見えるっていうところに都合がいい情報を無意識で選んでる。
音も選んでるし、見えるものも自分で認識としては選んでしまっている。それがある意味そのわびさびというか両面の陰と陽って両方をちゃんとフラットに見えるようになると本当にいろんな次元で全部フラットになるんですよね。
だから僕で言うとそれがあって今、東北に進んでるんですけど、冬があるからなんですよね、春、夏、秋、冬、ハッキリあって、僕はこれは陰と陽を両方ちゃんと一年を通して経験できる環境、それがやっぱり僕が昔住んでいたロサンゼルスとかシンガポールだとある意味、陽しかない、そういうとこじゃなくてこういう東北で今、陰と陽ちゃんと一年通して感じられるところそういうのも含めて住みたいって思ったりとかね。
さっきもレコードでケンちゃんの寝てる時の話しがありましたけど、僕もたまに感覚がすごい鋭くなっちゃうときに、目を閉じてても情報がすごく多すぎてちょっと怖くなって電気つけると、まぶたの向こうの光が閉じても開けても同じような、そういう風になってしまうことがたまに起きるようになったりとかして、つまり人生観とかだけじゃなくてね、こういう全ての感覚自体が結構フラットに捉えるようになって、ある意味、感覚を閉まったといってもいいかもしれない。
今、音楽でこういう風に表現したっていうのがなくなっちゃってるんです、正直ね。
いわゆる曲作りみたいな事をそんなにしてなくて、今は田沢湖で楽器弾いたり、それだけでもう結構充分なんですよね、なので今回の曲っていうのはお話を聞いてそれを表現しようとか、そう言うのではなくって、三上さんの話を聞いて「自分もすごく同じ感覚があるんですよ」っていう、ある意味ちょっと安心感じゃないですけど、そういうのを僕は感じてね、田沢湖にいるのもそういう意味での安心感なんですけど、それがただその中でたまたま出た音がこの話にも色々影響されてこういう風になっているのかな?っていう感じで、今回はたまたま作品としてそこにある状態です。
『窓越しに』
圓井
少しstarRoさんの作品を聴いてみました。
これは、どういった状況で作ったんですか??
starRo
第6回はだしのこころに出演しているKyoh3i君が、最近よく家に遊びに来るんですけど、勝手に僕がピアノ弾いているだけの時があるんですよ、そういう時にKyoh3i君が携帯で撮ってくれていて、それを素材に作ったという感じです。
圓井
この音像がくもっているような、、なにかstarRoさんが作為的に作ろうと思ってたわけでは無いものというか、、
タイトルは「窓越しに」というタイトルなんですよね?
『窓越しに』 / starRo
starRo
そうですね。
このタイトル決める前に、最近僕のうちもこういう旧松倉家住宅みたいにイベントできるようなスペースを住居にしているんですけど、たまたま画家と写真家の2人がうちに、合宿のような感じで、10日ぐらい来ていたんですね。
2人とも描いているとか、撮っている写真で、すごく印象に残ったのが両方窓越しに見える景色を描いていて、でも普通、僕だったら窓を開けてクリアに見えるやつを描きたくなると思うんだけど、窓に映っているランプの影と向こうの雪の景色と、両方同列に描いていたりとか、写真もくもりの中で、ちょっとわずかに見える雪景色のような…
同列だったんですよ、ここと向こうが、それがさっきも話した、全部がフラットに捉えられている状態っていう一つの事例としてね、すごく感動したんです。
なんとなくピアノで弾いた音がちょっとくもったガラスから見える雪景色っぽい感じで、実際ぼーっと外を眺めながら弾いてたのでその窓越しの作品のエピソードと重なって名前を付けたっていう感じです。
自分なりにバランスをとって、死んでいく
安藤
ちょっと聞いてみたいんですけど、、
私、ケンちゃんと随分付き合い自体が長くて、今starRoさんの話とか聞いてて、私たちってどうしても意識してフラットに物を見たいなとか、何かすごい乗り越えて、フラットになったりとかするんだけど、三上さんの場合はもしかしたらもうそういうところにいさせられるみたいな、音のフラットないろんなものがある世界にいさせられてる感覚で、その辺どう捉えてるのか、今、すごい感覚の対話してるんだけど、でもケンちゃんの切実さみたいな事にかなわないことを思ったりして、ちょっと一言聞いてみたい。
starRo
さっきもちょっとお話ししたんですけど、生き物として捕らえたときに動物だったら、そもそも寝れないのが自然だったりするんですよね。
なんでじゃあ、寝ないといけないかって言ったら、目をつぶったら寝れる人たちが、マジョリティ締めてて社会が作られていて、朝9時に出社して5時に仕事終わってとかそのタイムゾーンでみんなが動いてる中でフィットしないといけないから、自分は本当は寝れないんだけどわざわざ寝るようにしてるとかね、そういうふうに合わせないといけない自分がいて、それがやっぱり自分の方がマイノリティになればなるほどすごく苦しくなっちゃうんだと思うんですよね。
だから、僕も結構そういう意味でこの5年ぐらいは社会活動がしんどくなってた時期があって、仕事もそうですね、あまりお金稼ぐために自分のやりたくないことを、やらなくなってしまって….
今は、地域おこし協力隊っていう仕事が僕にとっては今までの気づきを本当にピュアに活かせる。
そして自分が田沢湖でまず幸せに生活する。そのエネルギーみたいなものを、ちょっとお裾分けするくらいの感じでできるからやってるんです。
そういう風にやっていくとお金ってそんなに稼げなかったりとかして、そうすると徐々に自分もじゃあ、畑もやって野菜やったりとか、色々生活もどんどんそういう風になっていく。
今、社会の形も変わっていっているので、今度は合わせなくていいってなるかもしれないんだけども、いずれにしても結構我々って、その社会のその時にマジョリティになっている社会のニーズに、結構合わせないといけないが為にやっていることがほとんどだったりするっていう。
じゃあ、そこを完全に脱却することはできないんだけど、できるだけ社会で当たり前になっていることを疑って一回こう見えてるっていうのを外さないといけないんですよね。
外したときにとてつもない膨大な情報量っていうのが来て、それはそれで生きづらかったりとかするから、今自分の人生は、2024年時点でこう生きている人間で、社会はこうなってて、そのためにある程度やっぱそれを、人間として合わせないといけないって事があります。でも、それが結局人生の全てなのかなと思ってます。
我々こうやって社会を持つような人間として、今を生きているっていうことが、そこに絶対に引っ張られてしまう。そこを苦しいんだけどできるだけ自分なりにバランスをとって、死んでいくっていうのが、自分の中の人生の、、人生の全てっていうことなのかなと、今の時点で思ってますけど。
第8回 はだしのこころ
感覚の対話「はだしのスクラッチ」にて
話し手|starRo
聞き手|圓井智哉/OVO 安藤郁子/NPO法人アートリンクうちのあかり代表
美術 |ふきぬけ
写真 |徐 津君 / 1. 2. 6
音響 |あそこ 爆音小僧寿し KoNG