ぐるぐる、ぐるぐる、輪になって踊れ
夏のよく晴れた日の午後。秋田市にあるアートスペース「うちのあかり」は、手拍子と人の歌声、笑い声に満ちていた。歌っているのは、平川慧さん。歌が大好きで、いろんな歌をすぐ覚えてしまうという。この日、初対面だった取材陣に囲まれた慧さんの緊張をほぐすかのように母親の幸子さんが提案したのが、歌を歌うことだった。

サビのループ再生が止まらなくなった慧さんに、幸子さんが「さぁ、慧くん、そろそろ絵を描いてみない?」と促すと、慧さんはスッとスケッチブックに向かって、絵を描き始めた。鼻歌で小さく歌い続けながら。
慧さんに描いてもらったのは、この日初めて出会ったカメラマンの似顔絵だ。目から描きはじめた。黒々とした瞳らしきものを、手をクレヨンで真っ黒にしているかと思えば、今度はその上を肌色で躊躇なく塗りつぶしていく。傍にモデルとなるカメラマンはいるけれど、そちらを見ることはほとんどない。
「それ、英語でなんて書いてあるんですか?」慧くんが似顔絵を描き始めて初めて顔を上げてモデルのカメラマンに尋ねた。
「“nabecco”です」。
それが、最後の仕上げの合図だった。

歌とキャッチボール
絵を描き終えた慧さんに、「はじめまして」僕の名前は、OVOです」と真っ先に話しかけたのが、アーティストのOVOさんだ。音楽と映像のほかにレコードカッティングなども自ら行う。慧さんが絵を描く様子をじっと見守っていたOVOさん。

「慧くんはどんな音楽が好きなの?」と聞くと「うーんとね、なんだっけ……」と最初は困ったように幸子さんの顔ばかり見ていた慧さん。しかし、断片的なヒントをきっかけに次々と歌を歌ううち、どんどん打ち解けていった。谷村新司の「サライ」「昴」、松山千春の「大空と大地の中で」、小田和正、財津和夫、河島英五、堀内たかおなどなど……。歌のラリーが盛り上がってきたと思ったら、今度は本当のキャッチボールが始まった。アトリエにあったボールをどこからか見つけてきた慧さんが、OVO さんにビニールボールをポンと投げたのだ。キャッチボールが一段落する頃には、2人はすっかり打ち解けた様子になっていた。

「あー、汗をかいたね」と声をかけたのは、うちのあかりの安藤郁子さん。「お水でも飲んだら」と慧さんにコップを差し出した。安藤さんは2015年から慧さんと制作を通して向き合ってきた。大きなコップいっぱいの水をすぐに飲み干し、またおかわりを無言で注ぐ慧さん。1杯、2杯、3杯……。止まらない。
「慧くん、もういいんじゃないかな」と幸子さんが声をかけた。「放っておくと、際限なく何杯でも飲んでしまうんです。さっきの歌もそうですが、彼は限度が決められないことが少なくなくて」と幸子さん。以前、大好きな砂糖入り紅茶飲料をあまりにたくさん続けて飲みすぎて、糖尿病になりかけてしまったことから、最近はもっぱら水を飲むように心がけているという。
水を飲んで一息ついた慧さんは、安藤さんに「背中をかいて」おねだりする。安藤さんも「背中? よし、わかった」と安藤さん。ボリボリ、ボリボリと大きな音を立てながら、慧さんの背中をかいている。慧さんはとても気持ちよさそうな表情を浮かべた。「ああして安藤先生に甘えているんですよ」と幸子さんは笑った。


「どうして?」問いが吸い込まれていく日々
とても穏やかに見える慧さんと幸子さんの日常。だが、慧さんには知的障がいに加え、統合失調症など複数の障がいがある。その慧さんを、最も身近で見守ってきた幸子さんは2018年から悪性リンパ腫を患っている。「実は今日ここに来る途中でも慧の強いこだわりが出てしまって、とても運転できない状態になってしまったんです。途中で車を降りてしまって」と幸子さん。

病後の体力回復が思うようにいかず、歯がゆい思いをしているという。「元は高校の体育教師だったから、体力には自信があったのにね。こんなになるとは思わなかった」。
慧さんは、生後間もない頃に無呼吸発作(後に睡眠時無呼吸症と診断)のため入院し手術をした。そのときの後遺症で知的な障がいが残った。19歳の頃には統合失調症を発症。当時通っていた作業所では、緊張したり気に入らないことがあると、窓を割ったり、ドアやストーブを蹴ったり、ブレーカーを下げて回ったり、水道の蛇口を「2」の字に曲げたり、ナンバープレートを折り曲げたり……。幸子さんは「さすがにこれ以上周りに迷惑をかけられない」と、作業所を退所させることを選んだ。退所後、祖父母が「家で見てあげる」と言うので預けると、これまた障子やふすまは破るわ、祖父母をパンチで殴るわ、仏様の下がりものは取るわ……。「これ以上周りに迷惑をかけたら、慧が本当に孤独になってしまう」と思いつめた幸子さんは、20年勤めた高校教師の職を早期退職し、慧さんの面倒を見ることに専念しようと決めた。
地元・能代の景色を点で描く
慧さんが絵を描き始めたのもその頃だ。最初の頃の作品は、丸いカラーシールを貼ったシールアートだった。

早くから慧さんの絵の才能を見抜いていたという、地元・能代の「喫茶みむら(2014年閉店)」のマスターで画家の金谷真さんのアドバイスでアクリル絵の具を使った点描画へと移行。その独特の配列や豊かな色彩に注目が集まり、能代市の「まちなか美術展」に出品したのを機に、多くの人の目に作品が触れ、注目を集めるようになった。安藤さんと慧さんが出会ったのも、その頃作った作品を通してだった。秋田公立美術工芸短期大学構内で行われた「いのちのありか展(2012)」を安藤さんが主催した際に、慧さんの作品が多数出展されている。この当時の展覧会は、アートギャラリーなどからも高い評価を得て、「慧くんの作品をぜひ販売してほしい」という人も少なくなかったと、幸子さんは言うが周囲から「商売にしちゃいけないよ」とアドバイスされていた幸子さんは、慧さんが純粋に絵と向き合える聖域を守ってきた。
「慧は4時に起きて、ずっと外の景色を眺めているんです」と幸子さん。



「彼の絵を通して、『能代の景色を感じる』と言ってくださった方がありました。それは本当にそうなんだと思います。彼の日常は、窓から外を眺めるか、私が運転する横で窓から街並みを眺めるか、CDを聴くか、テレビを見るか、瞑想をするか、絵を描いているかのどれかなんです。そんな慧の作品を通してまちなか美術展に出て、そこで広がった安藤先生や能代の町の方々との出会いによって、慧にとって絵を描くことは生活の一部になりました」と話す。
「慧くんって会いたくなる人だよね」
慧さんの絵に変化が現れたのが2018年のことだった。きっかけは、幸子さんが病気をして入院をせざるをえなかったことだ。入院期間は4ヶ月にも及んだ。入院中の幸子さんに、慧さんが「お見舞いに」と幸子さんの似顔絵を書いて持ってきてくれたのだという。「それまで人物画など一度も書いたことがなかったのに、と驚きました」。幸子さんの入院中、慧さんはショートステイを利用しながら、就労支援センターに通いつつ、「うちのあかり」で毎週アート活動をするようになっていた。そんな慧さんの変化にいちばん驚いていたのは、これまで最も近くで慧さんを支えてきた幸子さんだった。
「慧がこんなにも長い間、家族から離れて暮らしたことは一度もありませんでした。そんなことできないと思っていましたから。ところが家族以外の人との関わりが増えたときに、ありのままの自分を家族以外の人から受け入れてもらう体験をたくさんしてきたようです。似顔絵の作品はそうした人との関わりの中で生まれた作品です。似顔絵を描くようになってから慧の表情もなんだか穏やかになったような気がして……。」とうれしそうな表情を浮かべる。

「だって私、これまでずっと“慧より長生きしなければ”と思い込んできたんですよ。でもそれって、他ならぬ私自身が慧のことを1人の大人として見られていなかったのだとようやく気づいたのです。彼にはできないこともたくさんあるけれど、こんなにも周りの人を笑顔にすることだってできる。そうやって多くの人に支えられて生きていくこと。それも1つの自立の形なのだと。」。

「慧くんって会いたくなる人だよね」。
安藤さんが慧くんに何気なく言った一言に「最初はとても驚いた、冗談かと思った」という幸子さん。「だって周りの人に乱暴したり、暴れたりすることも少なくない子でしたから。だけどそんな慧のことをありのままに受け止めてくださる安藤先生だからこそ、慧はとてもリラックスして自分の素直な部分、やわらかな部分を安心して出すことができているんでしょうね。」



「本当に、慧にも安藤先生にも、私はいつも驚かされっぱなしですね」。

文:三谷 葵(ユカリロ編集部)
写真:高橋 希(ユカリロ編集部)
編集:ユカリロ編集部