描いたことを忘れる画家
ちょっと変わった色鉛筆画家がいる。そう聞いて向かったのは秋田市の支援施設「ごろりんはうす」だ。
その人の名前は、はじめさん。「色鉛筆のはじめさん」として、過去5回の「はだしのこころ」展へはもちろん、るんびにぃ美術館(岩手県花巻市)で開催された「わたしのなかにはあなたがいる」展(2015/6/4-2015/8/3)などにも色鉛筆画を出展してきた。
はじめさんが「ちょっと変わっている」のは、「描いたことをほとんど覚えていない」という点にある。はじめさんいわく、
「描く前に何を描こうというのもないしな、できあがった絵を見ても『これ、誰が描いたの?』という感じで。覚えていないのよな。朝描いたものを昼に見てももうわからないんだ」という。
この日、はじめさんが描いていたのは、「なかよし4人組」という作品だった。若い4人の大学生が、仲良く地引網をしながら、仲良く魚を食べようねと話しているというシーン。メモ帳にはボールペンで描いた同じシーンのラフスケッチもたくさん残っているが、本人は「どうしてこれを描いているのかわからない」と話す。
100本近く色鉛筆が入ったお菓子の缶から、ほとんどそちらを見ずに色鉛筆を選んで着彩していくはじめさん。とにかく途中で思い悩んだり、止まるということがない。
「オレがやっているのは、補助だと思う」。
はじめさんがぽつりつぶやいた。補助って、誰の? そう問うと、少し考えてからはじめさんはこう答えた。
「見る人だな。見る人の補助。絵を見てくれた人が喜んでくれればいちばんうれしい。絵を見た人がうれしい気持ちになって、“ありがとう”って言ってくれると、“こちらこそありがとう”と思う」。
正解は、絵を見た人が決める
ごろりんはうすの理事長・藤原芳子さんに、はじめさんのことを伺った。
「はじめさんはごろりんはうすができてからずっと通ってくださっているので、10年近いお付き合いになります。最近は足腰が弱くなったので週1回程度の利用です。うちは精神障がいの人を受け入れる施設で、18歳から介護保険になる年齢(65歳以上)まで幅広い年齢の方が利用されています。はじめさんはそのなかでも最年長ですね」
藤原さんは、はじめさんの作品や、「描いたものを忘れる」ということをどう見ているのか。
「長年、統合失調症を患っているので、絵の内容を忘れてしまうのも症状の一つかなと思って見ていますが、絵を描くことで思い出や、心に映った風景とかイメージをああやって表現できるのはすばらしいですよね。はじめさんはね、『この絵は何? 犬?』と聞くと、『うん、それでいい。自分の見えたものでいいんだ』と言ってくれるんです。『正解は、絵を見た人が決めるんだな』っていうのがはじめさんの考えだそうです。はじめさんは賞とかお金には無頓着で、描いた絵を喜んでもらうことをとっても喜ぶ方。はじめさんにとって絵を描くことって、心の深い場所で人とつながる手段なのかもしれません」
藤原さんの仕事場には、はじめさんが藤原さんを描いた絵が飾られている。
中心の大きな女性が藤原さん、背中におんぶされているのがはじめさんだそうだ。ほかにも小さな人たちが藤原さんのまわりに集まっている。まるで女神様のような描かれ方だ。
「私のほうがはじめさんより年下なのに! ってはじめさんにも言っちゃったけど(笑)。でも、はじめさんが私たちの支援をこういうふうに捉えてくれたのだと思うとうれしくて、『今、私たちはこういう支援の形ができているかな』と考えながら、日々この絵を眺めるんですよ」。
はじめさんの作品に出会える場所
ごろりんはうすが運営する利用者の自立支援を目的としたギャラリー&カフェ「ごろりんはうすStory」にも、はじめさんの絵が飾ってある。Storyは主にひきこもりの女性たちの就労支援の場だ。500円で食べられるランチやコーヒーやハーブティーなどを提供するほか、ハンドメイドのフェルト作品、水引のしおりやアクセサリー、布製品など利用者が作った小物も販売されている。
カウンターキッチンと大きなテーブルを中心に、小上がりにはソファが置かれ、まるで家のような居心地の良い空間だ。ここにはじめさんの絵が13点飾られている。夕日を眺めている家族の絵もあれば、大きな魚と泳ぐ人の絵や空飛ぶ人々といった幻想的なイメージを描いたものなど幅広い作品が展示されているが、そのどれもが心がほっと和らぐような優しい色使いだ。
支援員の佐久間玲奈さんによると、はじめさんはStoryにもよく来ていたという。
「お話好きな方で、ここにはお客さんとしてよく来店してくださっていました。藤原理事長に聞いたところによると開店当時、きちんと額装された自分の絵が飾られていることにすごく感激なさっていたそうです」。
アート イズ ロング、ライフ イズ ショート
はじめさんには、いくつか座右の銘がある。そのどれもが英語の格言だ。
“Time is money(時は金なり)”
“Better late than never(遅れてもやらないよりはまし)”
“Slow and steady wins the race(急がば回れ)”
“Art is long, life is short(少年老いやすく学成りがたし)”
スケッチブックの裏に書き留められた言葉は、どれも時間にまつわるものなのが印象的だった。朝、自分が描いたものを昼には忘れているはじめさんは一見、過去、現在、未来という直線的な時の流れには生きていないように見えるので、少々意外な印象だった。
一方で、2020年の作品『届かったグローブ』では、自分の記憶を元にした絵本のような物語のついた作品を描いている。
「この物語 じっさいにあった物語り
です 作者の 子どものころ に あった
ことで とても いんしょう ぶかく
うれしくもあり かなしかったりした
ことの 思い出みさきな
私の思い出です。さいごまで
よんで下されば 幸いと
思います。ではどうぞ
みてください よんでね
はじめ」
(はじめ『届かったグローブ』(2020)まえがきより」 原文ママ)
せっかく両親に買ってもらったグローブをどこかに忘れてきてしまって途方にくれる少年時代のはじめさん。悲しい気持ちで過ごしていたら、よそのおねえちゃんが「これはじめくんのでない?」とグローブを届けてくれて、悲しい号泣からうれしい号泣に変わる。おねえちゃんに抱きつくはじめさん。おねえちゃんは赤いシャツと黄色い半ズボンを着ていた。あのおねえちゃんは今、どこで何をしているかな。
このエピソードははじめさん7歳のときのものだそうだ。生年の「1958年」と書いた横に「7」、その横に「1965年」とあり、計算した跡も見える。
今から55年前のできごと、それにまつわる感情がみずみずしく描かれた作品だ。
時間には「砂」のような一面がある。過去から現在、未来に向かって真っ直ぐと流れる時計の刻む時間とは違って、さらさらと流れて形をもたず、確かに歩いたはずの自分の足あとさえ振り返るともうよく見えなくなってしまうような、そんな一面だ。はじめさんの絵から流れ出すのは、そうした本質的な時間の感覚なのかもしれない。
「絵を描くときは無だ」
はじめさんは言う。でもその無は空虚な無ではない。一瞬一瞬のうちにすべてがつまっている、充実した「無」なのだ。
「“アート イズ ロング、ライフ イズ ショート”だな」
はじめさんは自分が書いたメモを指でなぞった。
文:三谷 葵(ユカリロ編集部)
写真:高橋 希 (ユカリロ編集部)
編集:ユカリロ編集部